原点回帰
『繊細な気質・要素をもつ自分』を認める。
自分という人間の構成要素のうち『繊細な部分の割合が大きい』ということを受け入れる。
私はHSP(Highly Sensitive Person)なのだということを、認めて、受け入れる。
このことを、わりと長い間、受け入れることを自分に許可できませんでした。
「私は繊細なんだ」と認めて受け入れる、そう言ってしまうことそのものが、繊細さに欠ける図々しいことのように思えて抵抗していたことも大きいです。
だけど、実際に子供の頃は特に今以上に、私はHSC(Highly Sensitive Child)だったなと振り返って自己認識はしているくらい、子供の頃の私は自分でも苦痛に感じるほど神経質だった。
大きい物音・衝撃・振動、早いスピードの乗り物が苦手で恐怖を覚える。
なので、毎日の日常生活の中から常にストレスだらけだった。
具体的には
- 家のドアや車のドアを開閉する時の音と振動に怯える。(自分・他者の発するものの両方に対して)
- テレビの音、花火の音、お祭りの和太鼓の音と振動が恐怖。
- 車で高速道路に乗るときはスピードが速いと恐くて疲労しすぎて、外出時はドッと疲れる。人混みにも疲れる。(普通の道路でもスピードが出ると恐い)
すべてを自分に合わせて気遣ってもらうことはむずかしいし、忍びないし、できる限り自分の感覚を麻痺させて我慢してやり過ごす。
大人になった今は、自分自身の心との向き合いも進める中で
「他者と共生・共存するためには、多少のことは仕方ない」と割り切って刺激を無視したり、
自分の感覚センサーをあまり反応させないよう…麻痺させられるようになったので、子供の頃ほどの苦痛を感じることはなくなりました。
(でもそれは自分自身の心の向き合いが進んでから、というのは大きいです)
他にも、
- 周りの顔色や空気に敏感、過敏に反応する。
- ピリピリした空気や他の誰かに向けられた怒りでも居た堪れなくなる。そこから逃げたい。
- 恐い映像、色彩や絵柄などの強烈なインパクトのある画像が印象に残りやすいので苦手。
- グロテスク・暴力的な映像が苦手。
こうして自分をかえりみると、もともとの私はやっぱり『繊細』『過敏』に反応するタイプなのだなぁと今さらながらにあらためて認識することができました。
そして、そんな私の「ありのまま」を私自身がきちんと認めて、受け入れて、繊細さを隠したり否定することなく、そんな特性も受け入れて生かしながら生きていきたい。生きていこう。
そのように受け入れて、決心することができました。
HSPだと今まで何度か意識したり考えることはありつつもスルーしてきたのに「繊細」を認めることになったのは、
MBTI診断でINFP-T型であることがわかって、INFP(仲介者)はHSPとも関連性があるとわかったこと。
そしてもうひとつ、私がAC(アダルトチルドレン)であること。
この2つも加えた3つの要素が揃ったことも大きくありました。
かつて、一番最初にHSPかも…という可能性が浮上したのは、ACの特徴と類似しているから可能性が浮上したのであって、実際にはHSPではなくACだからなのかなと思っていた。
だけど、最近になりMBTIでINFPと診断結果が出て、INFPはHSPと共通したものがあって…
……やっぱりHSP傾向が強いのか…!!
という結論に至ったという流れでした。
見ないように・スルーしていたのに、ひとつ、またひとつと外堀が埋まっていってしまった……笑
ちなみに、あらためてHSPチェックもしてみましたが、控えめに答えるようにしたけれど、数値としては中程度のHSPでした。
せっかくだから、今後の人生は自分に存在する繊細な要素を上手い具合に生かして、人生をより良く彩っていけるようにしたいな。
「自分じゃない誰か」になろうと不毛な努力に人生の多くの時間と体力と気力を費やして消耗してきた私は、そのように強く願うのでした。
春先、肌トラブルに悩む。
先週からこの一週間、史上最強の肌荒れに頭を悩ませていた。
慎重に様子と経過を見守ってきて、一週間経ってようやく調子が戻ってきたのを実感できています。
本当によかった。
不調の発端は先週のこと。
とある用事で久しぶりに大勢の人が集合している場所へ出掛けました。
用事が終わり、電車とバスまでの待ち時間に、欲しい物を買い求めるために人ごみの中を一時間弱ほど歩き回りました。
そろそろ切り上げて電車へ乗ろう…という頃には、さすがに疲れて頭の重さと眠気であくびを連発する状態。
まず電車に乗り、それからバスに乗り換えて。
電車内ですでに眠気が強烈でウトウトしていた時にはそれほど気づかなかったけれど、バスに乗り換えてから顕著に目の周辺にヒリヒリとした痛みとかゆみと乾燥する感覚を感じ始めました。
見ていないけど、これはなんかまずそう……と思いながら帰宅しすぐに鏡で確認すると
まぶたが腫れて目の周りが赤くなっており、そして強く乾燥してしわしわ感が目立つ………。
残念なことにとても見事に肌荒れしていました。
実は年明けから右目の調子がおかしくて、原因不明にまぶたが腫れて眼瞼下垂のようになっていた。しかも片目だけ。
4月頃までかかって最近ようやく全快!元の様子に戻ってスッキリしていてうれしいー!!
……と、喜んでいたのも束の間………。
その比じゃないくらいのひどい状態・状況に、ショックやら悲しいやら。
その日の朝、それまで使っていた化粧水と別の種類の新しい化粧水を開封して使い始めました。
外出する前のスキンケアと化粧した時点では、特に刺激を感じることも目に見えた不調もなく。
アレルギーなのか日光が原因なのかな……?とも思うものの……
目的地に到着した時には化粧をしてからすでに4時間ほど経過しており、すでに十分日光も浴びた後だったけれど、お手洗いで鏡を見て身なりを整えた時には異変はなかった。
また、その化粧水はしばらく使用していなかったものの、昨年にも一時期使用していたことがあり、その時はなんの異変もトラブルも、些細な体感もなく。
異変が現れた後は、その化粧水を使うと沁みること沁みること……
そして、上下のまぶたと目の周辺が真っ赤になり、腫れる…まぶたの二重の幅が2倍、それ以上に。。。
その化粧水へ変える直前に使っていた化粧水の残りがわずかにあったのでそちらをつけてみるも、それもまたひどく沁みるように。。。
2日後は最初は無かった細かいプツプツまで両方の頬全体にでてきて……
日曜・祝日だから皮膚科もすぐには行けない……どうしたら……と困り果てました。
下手に何かをつけるとますます肌に刺激を与えて負担をかけてしまうし、かといって何も塗らずにいるのもこの春先の気候もあってとても乾燥してくるのを感じるし、どうしたら……
と頭を悩ませ、とりあえず保湿はしたい、とアルコール無配合・薬用・敏感肌にも使えるようなスキンケアラインをリサーチしてドラッグストアへ。
お風呂上がり、また沁みて腫れたらどうしよう……と恐るおそる購入してきた化粧水を手に取り、肌に馴染ませる………と
ほとんど沁みない……!!
そしてまぶたも腫れない………!!!(感動)
アルコールフリーのものは沁みることなく、ようやく保湿できて本当に助かりました!
ちなみに、お世話になったのは資生堂のIHADA。
たぶん、もうしばらくはずっとIHADAのお世話になることと思います…(軽くトラウマ)
IHADAに切り替えて数日様子を見ていますが、ぷつぷつも消え、少しずつ落ち着いてきて再生してきているのを実感でき、一安心しています。
連休で皮膚科に行けないのを逆手に、平日になってからもひとまず様子を見つつ病院へ行くか検討しようと思っていたのですが、行かなくても大丈夫そう。
季節の変わり目も重なって、化粧水にストレスに……いろいろな要素が重なってのことだったのかなと思います。が。
いまだかつてない肌トラブル、こわいなと痛感しました。
顔だし、肌が不調だと外に出たくなくなりますし………肌の状態どころか、人相まで変わりかけたもんね……
………とりあえず、私はもうアルコール配合の化粧水は買わない気がします。
小さな成長
新しいことができるようになっていくこと。
始めは上手くできなかったことが、コツを掴んで上手くできるようになっていくこと。
どんなにささやかで小さなことでも、それは嬉しいものだなぁと実感しています。
もういい大人だけど、パンケーキを作り始めたのは、ここ1〜2年のこと。
初めて作ったパンケーキは、なぜか上手くひっくり返す……以前にフライパンから剥がれず、粉々になり。。。
サクサク・カリカリの謎のクランブルのようなものがパンケーキの代わりに出来上がる……
というのが最初の3回目くらいまで続きました(笑)
説明書の通りに作っているはずなのに、なんでこうなるのだろう??
たしかに不器用なんだけど…よほどの不器用で焼くのが下手すぎるのかな……
と頭をひねりつつも、めげずに、懲りずに挑み続けて。
生地の"緩さ"の加減とか焼くときのコツをようやく掴むことができて、回を重ねるごとに仕上がりに少しずつパンケーキらしさが増していくようになりました。
最初の粉々(笑)の原因は水分量が少なく生地が硬かったことと、焼くときにきちんと火が通って生焼けを防げそうだと思って生地を薄く広げて置いていたこと。
そこを水分量を増やしてけっこう緩めの生地にして、焼く時はなるべく広げずに置くようにして自然と広がっていくくらいに任せる。
あとはあんまり触らず焦げそうなギリギリまで低温でじっくり焼いておく。
そうしたら、最初の粉々のクランブルのようなものとは全く違う、パンケーキという名の通りのものがついに出来上がるようになりました!
パンみたいな食べ応えもあって、食べていて・食べ終えると満足度も高くて、それがまた嬉しくてますます満足!
この喜びの循環を体験・実感できて、やりたいことができるようになる・上達していくって、すごく心が潤うし、"満ちる"ことだなぁと感じました。
私は「自分がやりたい・できるようになりたいと心から望むことは、たとえ時間がかかるとしてもできるようになる」と思っています。
それが自分にとってもともとは苦手で不向きなことだとしても。
ただ、もともとは苦手・不向きな分野のことは頑張ってできるようになれるとしても、もともと得意な人がすればすごくできることが、
苦手な人が努力したらマイナスを埋めてゼロ地点・人並みに支障なくできるようになる…ところまでかもしれないし。
上達しても他の人の2倍3倍…とかすごく時間や労力がかかるかもしれません。
でも、"できない"ところから、"できる"ところに行けるようになると思っています。
私自身が、そんな体験をわりとこれまでに何度もしてきたから。
大げさな事でなくても、できなかったことができるようになっていくことは、心身が前向きなエネルギーと幸せで満ちるのを感じられたひと時でした。
本当にささやかでも、幸せは今ここにありますね。
今は素人み溢れる味のある形のパンケーキを楽しんでいるけれど、型を買ってみて丸くて厚みのあるパンケーキも焼いてみようかな〜とか。
パンケーキとともに私の楽しみとわくわくも膨らみます。
見捨てられることが一番こわい相手は他者ではなく・・・
内心は、まだまだこわい。
タイトルについてです。
だけど、それ以上に本当にこわいことは
『自分自身からそっぽを向かれて嫌われてしまう・見捨てられてしまうこと』
退職とともに、なんとか保ってきた張りつめていたものがプツリと切れてしまった。
そうして、ココロが底に沈んだり浮上したりを繰り返す混迷状態に。
ほんの些細な出来事、と思っていたことの積み重ねから、自分で思っていた以上にダメージを受けていたようです。
とにかく自分自身を二の次、三の次・・・それ以降くらいに後回ししての「他者優先」で生きてきた人生という認識と自覚はこれまでもありました。
(他者から見たら、そうは見えなかったかもしれません)
それに加えて、周囲の環境に「過剰適応」しようとする傾向が自分にあるのだと、仕事を辞めてから知りました。
この「過剰適応」というものも、最近初めて知った。
幼い子供の頃から、他人から嫌われたり見捨てられる恐怖ゆえに他者優先で周囲に過剰適応しようと必死でやってきていたら、私の中の奥底の自分自身……つまりは私の"インナーチャイルド"が、
『もう他人さえ居れば私自身は存在しなくたっていいんでしょ』と拗ね散らかしている……その心の声にようやく気づきました。
自分が本当は何を望んでいるのか、本当は今「いい」と思っているのか、それとも「いや」と思っているのか……一体どう感じているのか、問いかけても空白で、なにも答えが見えない…。
もう何十年も自分自身と向き合ってきて、それでもいまだになかなか見えてこない。
自分から嫌われることのキツさ、痛感しています。
そっぽを向いた自分は、硬くこわばり閉じてしまった心は、なかなか開いてくれません。
少しずつ自分自身と、ココロと、対話するように向き合いながら少しずつ取り戻してきたのですが、昨年いた職場の中でいつの間にか周囲に過剰適応しようとしている状態に陥って、また心が硬くこわばってしまった。
本当、一進一退だなぁ・・・と少し落ち込みもしたけれど、めげずに再び向き合いなおすことを決めました。
少し、いい感じになってきた!と思えば、また全然反応なし・・・ともなるし。
自分との向き合いもなかなか根気を要します。
そこまで頑なになってしまうまでに追い込んでしまったからこそ、同じくらいかそれ以上の時間がかかっても、あきらめずに自分自身と向き合っていこうと思っています。
それと同時に、再び「自分」にがっかりされて"また"失望されてしまわないよう、他者を優先して自分自身の本心や状況・状態を無視した選択や言動をしてしまわないように、というのも人知れずがんばっているところ。
かつて、不可能だとわかってはいるけれど、なるべく日々関わる全人類から好かれるよう・受け入れてもらえるよう・認めてもらえるように……と自分をすり減らすような努力をしてきた過去の私。
今の…特に最近の私は、自分自身以上…くらいに自分の中でその存在を大事にしてきた相手に対しても、これで関係が崩れたり終わることになってしまったとしても仕方ない…!と腹を括って「それ、私はこのように思うのだけれど、あなたはどう思っての言動なのか教えてもらえる?」とか相手に投げかけては自分の気持ちを明かしたり伝えることを、なるべくサボらずにがんばっているところ。
他者に合わせるのではなくて、相手の思いや意思は認めて尊重したうえで、自分自身は「自分自身の思いや望みに合わせる」ことを、優先する。
家族や近しい大事な人たちとの間でおそるおそるやってきたその試みを、社会生活の中でも、それほど親密なわけでもない、もっと不特定多数の人たちともできるようになっていく必要があることを身に沁みて味わった前職場での日々でした。
社会復帰を見据えるとき、そのことを思うと・・・緊張が走ります。
・・・・・集団社会、コワイヨー
歩いていく。日々はつづく。
2月3月頃から、各所で持っていたブログのアカウントを整理・削除したり、新しく作り直したり・・・を続け。
どこをどんな目的で存在させ、どこで何をして・・・と、あーでもないこーでもないとごちゃごちゃを繰り返し・・・(苦笑)
結果、はてなブログを作りました。
日々のなんてことない記録を書きたいなと思ったのです。
メンヘラぽいところがあって、心のことにはもう長いこと向き合ってきたのだけど。
自分のことで見えてきたこともいろいろあるけれど、それでもまだまだ、まだまだまだリハビリ=実践が必要だなってあらためて最近実感しています。
それも含めて、やっぱり小さなことを積み重ねて記録していきたいなって思った。
きっと、ほんの些細なことだけど。
そのほんの些細なことが、大事にできてないなと感じることも多々。
最近の意識的に心掛けていることは「ながら食べ」をやめること。
意識していないと、今も気づくとうっかりしてしまっています。
スマホを見ながら食事をし、目の前の画面と情報にばかり意識を向けて、食事を味わうことがおろそかになっているうちに、ふとある日
「意識して味を感じよう、味わおうとしているのによくわからない……」
「自分で食事を作ってもおいしいのかおいしくないのかもわからない」
「おいしくできた気がした時でさえ、食べても食べても足りない気がする……」
と、感じられなくなっている自分に気づいた。
今年の3月頃までそんな状態で、その時は、だいぶ心が凍り付いて縮こまっていたのをあらためて今は実感しています。
今も凍っている部分もあるものの、少し溶け始めたと思ってる。
どうやってそれを取り戻せたかといえば、実家に一時帰省をして、その時にごはんをじっくり味わって食べる体験ができたこと。
とてもシンプルな食事だけど旬の野菜とか玄米とか、ゆっくり噛みしめて味わいながら食べることを繰り返す中で、自然と取り戻すことができた。
たぶん心の枯渇だけでなく私の食事事情が潤っていなかったことも影響が大きかったので(苦笑)大好きな野菜の充実した食事をお腹いっぱい食べているうちに心も身体も満ちていって、できなかった"じっくり噛みしめて味わう"ことを気づいたら自然としていました。
心そのものへのアプローチはもちろん大事だけど、身体・栄養から心へと与える影響も大きいんだってことを実感できた気がします。
実家にいた時みたいに充実した食事を日々用意できているわけではないけど、自分にできることをしながら、同時に自分の心に耳を傾けること、自分の心と対話もおろそかにしないように気をつけて。
帰省を終えてもそうしたことを意識していて。
今日の昼食は手抜きで以前は食べても満たされずすぐに空腹感を感じていた時と同じような内容・分量の食事だったのに、しっかり味わうことを意識して食べ終え、食後に満腹感・満足感を感じている自分を感じることができました。
心も身体も、両方とも常に連動している。
どちらかに偏ることなく、どちらも大切にして自分を大事にしていこうとあらためて思います。
このような些細な感じたことなどを私自身のために集めて記録していきます。