心の花が咲くように

自分の庭をお手入れし、自分を少しずつ育てる毎日

見捨てられることが一番こわい相手は他者ではなく・・・

内心は、まだまだこわい。

タイトルについてです。

 

だけど、それ以上に本当にこわいことは

『自分自身からそっぽを向かれて嫌われてしまう・見捨てられてしまうこと』

 

退職とともに、なんとか保ってきた張りつめていたものがプツリと切れてしまった。

そうして、ココロが底に沈んだり浮上したりを繰り返す混迷状態に。

ほんの些細な出来事、と思っていたことの積み重ねから、自分で思っていた以上にダメージを受けていたようです。

 

とにかく自分自身を二の次、三の次・・・それ以降くらいに後回ししての「他者優先」で生きてきた人生という認識と自覚はこれまでもありました。

(他者から見たら、そうは見えなかったかもしれません)

それに加えて、周囲の環境に「過剰適応」しようとする傾向が自分にあるのだと、仕事を辞めてから知りました。

この「過剰適応」というものも、最近初めて知った。

幼い子供の頃から、他人から嫌われたり見捨てられる恐怖ゆえに他者優先で周囲に過剰適応しようと必死でやってきていたら、私の中の奥底の自分自身……つまりは私の"インナーチャイルド"が、

『もう他人さえ居れば私自身は存在しなくたっていいんでしょ』と拗ね散らかしている……その心の声にようやく気づきました。

自分が本当は何を望んでいるのか、本当は今「いい」と思っているのか、それとも「いや」と思っているのか……一体どう感じているのか、問いかけても空白で、なにも答えが見えない…。

もう何十年も自分自身と向き合ってきて、それでもいまだになかなか見えてこない。

自分から嫌われることのキツさ、痛感しています。

そっぽを向いた自分は、硬くこわばり閉じてしまった心は、なかなか開いてくれません。

 

少しずつ自分自身と、ココロと、対話するように向き合いながら少しずつ取り戻してきたのですが、昨年いた職場の中でいつの間にか周囲に過剰適応しようとしている状態に陥って、また心が硬くこわばってしまった。

本当、一進一退だなぁ・・・と少し落ち込みもしたけれど、めげずに再び向き合いなおすことを決めました。

少し、いい感じになってきた!と思えば、また全然反応なし・・・ともなるし。

自分との向き合いもなかなか根気を要します。

そこまで頑なになってしまうまでに追い込んでしまったからこそ、同じくらいかそれ以上の時間がかかっても、あきらめずに自分自身と向き合っていこうと思っています。

 

それと同時に、再び「自分」にがっかりされて"また"失望されてしまわないよう、他者を優先して自分自身の本心や状況・状態を無視した選択や言動をしてしまわないように、というのも人知れずがんばっているところ。

かつて、不可能だとわかってはいるけれど、なるべく日々関わる全人類から好かれるよう・受け入れてもらえるよう・認めてもらえるように……と自分をすり減らすような努力をしてきた過去の私。

今の…特に最近の私は、自分自身以上…くらいに自分の中でその存在を大事にしてきた相手に対しても、これで関係が崩れたり終わることになってしまったとしても仕方ない…!と腹を括って「それ、私はこのように思うのだけれど、あなたはどう思っての言動なのか教えてもらえる?」とか相手に投げかけては自分の気持ちを明かしたり伝えることを、なるべくサボらずにがんばっているところ。

他者に合わせるのではなくて、相手の思いや意思は認めて尊重したうえで、自分自身は「自分自身の思いや望みに合わせる」ことを、優先する。

家族や近しい大事な人たちとの間でおそるおそるやってきたその試みを、社会生活の中でも、それほど親密なわけでもない、もっと不特定多数の人たちともできるようになっていく必要があることを身に沁みて味わった前職場での日々でした。

社会復帰を見据えるとき、そのことを思うと・・・緊張が走ります。

 

・・・・・集団社会、コワイヨー